今日は、占いとスピリチュアル
サイキックとスピリチュアル について改めて。
以前の記事にも綴りましたが
占いとスピリチュアル
その違いが分かりますか?
私の中では、占いは"答え"と"可能性"
スピリチュアルは、どうしてその答えになり
どう、その答えを引き寄せ
どう可能性を広げていくのか?
その答えに辿り着くのを阻んでいるものは何かをみたり
あるいは、違う未来や方向性へと変えていくにはどうしたら良いか?
単なる答えではなくて
答えを通して自分の統合に繋がっていくもの
答えが幾通りの可能性に繋がるものだと、私は思っています。
そしてサイキックとスピリチュアル(スピリチュアリティ)の違いはどうでしょうか?
サイキックは能力でありDoing(行為)で
『何が出来るのか?』であり
スピリチュアルは霊性、精神性でありBeing(存在)『どうあるのか?』だと私は理解しています。
サイキック能力が高くてもスピリチュアリティが伴ってない人もいますし、
反対にサイキック能力がなくとも、スピリチュアリティが高い人はたくさんいます。
これ『頭がいい』に似ています。
頭がいい は『学校の勉強が出来る』と
『教養がある人』の二通りあると思います。
学校の勉強は出来なくとも、頭の回転が早かったり教養がある人はいますし。
学校の勉強は優秀でも頭が固かったり、教養のない人もいます。
『学校の勉強』が出来なくとも人に迷惑をかけることは少ないですが、『教養がない』と人に迷惑が及びます。
いまスピリチュアルがブームのようになっていて、
このサイキックとスピリチュアリティも混同され同一されているように感じることもありますが、
占いとスピリチュアル
サイキックとスピリチュアリティ
似ているようで全く違います。
いま"サイキックな人は凄い!"という風潮です。
確かにサイキックは凄いですが、
『学校の勉強が優秀』
能力が高いだけでは、スピリチュアリティが高いとは言えません。
そして人として、本当の意味でバランスがとれているとは言えません。
『サイキック』でなくとも魂の成長や、目覚めて生きること、悟ること、人生の目的を生きることは出来ます。
でも『サイキック』なだけでは魂の成長、目覚めて生きること、悟ること、人生の目的を生きることは出来ません。
私は、真のスピリチュアルな存在として生きることの副産物としてサイキックな能力が高まってくることが理想の形なのではないかと思います。
もちろん、サイキック能力が先に目覚めたり、もともと高い人もいますが、そういう方はスピリチュアリティを高めていくことが重要です。
サイキックでなくとも、
真のヒーラー、
真のティーチャーだなと感じさせる人があなたの周りにいると思います。
ごくごく普通のお仕事をしていて、
癒しや教える仕事をしてなくとも
ご本人には『癒している』『教えている』なんて自覚がなくても真の癒しや真の教えが出来ている人。
そういう方は霊性、スピリチュアリティの高い人です。
私はアトランティス期はこの
サイキックとスピリチュアリティのバランスが崩れたからこそ崩壊したのだと感じています。
『サイキック能力がない』
『サイキック能力を高めたい』と思っている人は多いと思います。
そんな風に伝えてくださる方は多いです。
でも、もう一度考えてみて下さい
あなたが目指しているものは、
あなたがなりたいのは、
能力を重んじるサイキックな存在、サイキッカーでしょうか?
それとも霊性や精神性を重んじるスピリチュアルな存在ですか?
そしてね、ご自身が教えている"教え"と本人がかけ離れている
言っている事とやっている事が食い違っているような
スピリチュアルな知識はたくさんあっても、
そのスピリチュアルな知識を教えることは出来ても
スピリチュアルな実践や
スピリチュアルな生き方が出来ていない人というのも
ヒーラーやティーチャーやセラピストを名乗っている人や、有名な人の中にもいます。
みなさんは、単にスピリチュアルな知識がある人ではなく
スピリチュアル実践者、スピリチュアルな生きた方をしている人であって下さい。
誰かから学ぶ時にもそういう方を選んで下さいね。
私たちは、スピリチュアルな生き方をしながら
少し前の時代のようにヒマラヤの奥地など、
日常からかけ離れた場所でスピリチュアルな生き方をするのではなくて
日常の中でスピリチュアルを生きます。
だれもがスピリチュアルを実践しながら生きる地球は、想像するだけでも愛と調和に満ちていますよね
綴りながら思いつきましたが、
今度は、サイキックと魔法の違いも綴ってみたいと思います。