二月ですね。如月。
旧暦では、太陽暦の12/24が2/1です。
如月、きさらぎと読むとき
まだ寒くて重ね着が必要という意味の衣重着(きさらぎ)から如月に。
にょげつと読むとき、寒い冬が終わり春に向かって万物が動き始めるという意味から。
宇宙の流れの中で統治の時代が終わり
個性と和の時代の流れの中で
本当は暦なども統治の時代の前のかたちに戻っていく方が自然なのかもしれません。
私の中でも今の暦が当たり前になってしまっているので、
これから少しづつ、無理なく、意識を向けていきたいと感じています。
先日、日向神話1300年の旅を読み終わりました。
天地初発(あもつちはじめのとき)天之御中主から独神が七代続き
その後にイザナギ・イザナミの男女神であり
夫婦で一柱となる神が現れ国生みが始まる
けれど、イザナミは火の神カグヅチを産んでからは、物実(ものざね…神様についていた物より神が生まれること)によりイザナミもイザナギも1人で神を生み出す。
つまりはそれまでは2人で一柱だった
または陰陽だったものが、
ここをきっかけに1人で完全な神様となったことを現しているのではと感じていました。
何によってか?
それはイザナミは自分の肉体を犠牲にしてでも火と一つになることにより
イザナギはイザナミを亡くして泣いた涙という水によってか、もしくは黄泉の国より戻りし時に禊いだ水によって
だからこそ、禊祓いを終えた後の水より
アマテラス・ツクヨミ・スサノオが生まれた。
私はひょっとこが火男が語源で
おかめが水がめが語源だと知りませんでした。
もともと火の要素である男性、男神が水と一つになる事により内なる男女の統合となり
水の要素である女性、女神が火と一つになる事により内なる男女の統合となり
だからこそ1人で神を生み出していったのではないかと感じています。
火と水を表す紙折符。
イザナギとイザナミがはじめ、ヒルコを産んでしまうのは、先祖の神々の心神と離れてしまったから。
そこから離れて神々が生まれることは決してない。
愛する妻を奪った我が子でもある火の神をイザナギは切り、そこからも神が生まれる
憎しみから本当に我が子を切っていたら神様は生まれません。
イザナギが買ったのは自分の異心(邪心)です。
そんな風に、どんな表現がされていようとも
その下にあるものを感じてみて下さい。
神代と人間を繋ぐ接点である初代の天皇となる神武天皇は、日向の地を離れ東征の旅にでますが、
宇佐に一年
筑紫国に一年
吉備国に八年
安芸国に七年滞在します。
なぜそんなにゆっくりだったのか?
それは稲作を教えるため。
葦原中国(あしはらのなかつくに)を
豊葦原瑞穂の国(とよあしはらみづほのくに…稲の穂が豊かに瑞々しく生い茂る国)にするため。
それは天照大神がニニギノミコトに自ら高天原で育てていた稲の穂を託しながら伝えた神意であり
神武天皇は、天つ神の神意と一つになって、
"国民が豊かで仲睦まじく幸せに暮らせる国"を目指していた。
色んな説がありますが、単に豪族を攻めたのではなく稲作を教え、その地の氏神さまを認めながら東へと向かった。
その証拠に稲作が広まると人口は20〜25万人だった人口は200〜300万人に増えたそうです。
明治維新の時に
『諸事 神武創業の始にもとづき』
〜神武天皇の建国の精神に帰ればいい〜という考えのもとに、異なる考えを纏めていったそうです。
いま、すべて "そもそも" へと立ち還る時にきているのを感じます。
私たち一人一人も
色んな制度も
豊かさとは何なのか?
そもそもの建国の始まりの精神はなんだったのか?
私は何者で何のために生まれてきたのか?
私たちは経済の豊かさが=幸せ ではないことに気づき始めている。
私たちもまた辿れば一人一人が、始まりの神様です。
何度も何度も神様たちでさえ、先祖の神々や自分の中の心神と離れて失敗を繰り返し
その度に、その始まり(心神・原点)に立ち還るように。
心神は言い換えると純粋なる魂です。
普遍なる、完全なる、大いなる魂。
神代から人間への話や神話は
魂が肉体と結びついた私たち一人一人の話。
そこに気付いて世界中の神話に触れると
新たな発見があるかもしれません。
いま何を信じ
どう生きたいでしょうか?